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【インタビュー】予選敗退から初王者への軌跡 前編

JR鶴岡駅から車で東へ約10㎞。住宅に囲まれた静かな場所に、羽黒高の練習拠点がある。
4面を男女で分け合うため、使えるコートは2面。決して恵まれた環境とは言えないが、その中で考え工夫し、伸び伸びと練習に取り組む日々が、彼らの最大の強みだった。

インハイV高監督interview
予選敗退から初王者への軌跡
白幡光
◎2017インターハイ男子団体優勝・監督[羽黒]

春の高校選抜で準優勝を収め、優勝候補として臨んだ今大会。夏の頂までに乗り越えた逆マッチは12本に及ぶなど、幾度も窮地に追い込まれながらも、あきらめずにつかんだ初タイトル。その王者までの道のりは、16年の県予選敗退から始まった。

「悔しさを思い出そう」があの日からの合言葉

16年の県予選決勝で敗れたあの日から、「負けた悔しさを思い出そう」が私たちの合言葉でした。生徒たちは話し合いを重ね、キャプテンの村田が優先順位を考えて練習メニューを決めて生徒主体で練習するように気をつけました。

試合では最終的には選手が自分で考え判断しますから、日常的に自分で考え判断する経験を積み重ねることが大切です。生徒にやらせると、指導者としては苛立つこともありますがこちらも我慢です。もちろん必要に応じてアドバイスはしますが、なるべく注意しない、強制しない、怒らない。この積み重ねで、例えばダラダラしている子には早く試合に入るようにうながすなど少しずつ生徒たちが自主的に行動できるようになってきました。最優先すべきことを判断して行動できるようになったことは、どこかでインハイのコートでのプレーにつながったと信じています。

そして私自身も、あの日からは、「予選で負けたから優勝できたと言えるように頑張ろう」と言い聞かせていたところもありました。優勝できた今、「やっと呪縛から解き放たれた」そんな気持ちです。

 

インハイ決勝3番勝負の場面で反撃を後押しする羽黒ベンチ。一丸となって幾度ものピンチを切り抜けた。「昨夏を知らない1年生とも昨夏の悔しさを共有することで団結力が高まった」と白幡監督

準々決勝から12本の逆マッチ

振り返れば、準々決勝の高田商業戦で7本、決勝の東北戦で5本と、12本の逆マッチです。普通なら負けています。逆転の秘訣があったわけではありませんが、ただ、勝ちたい気持ちがより強かった。生徒たちの、最後まで決してあきらめない気持ちの部分が最大の勝因だと思っています。

インターハイのベンチでの選手への声かけで、具体的なことはほとんどありません。やるべきことをやるだけだと伝えました。試合中にどうこう言っても最後はプレーの最前線にいる選手が決めますし、試合中にいろいろ言っても選手は覚えることができません。いつも言っていることを繰り返すほうがいいのかなと。逆に考えると、試合中にいろいろ言わなければならないのは、普段の指導が足りていないということ。さまざまなことを想定して練習しておくことが大切だと思うのです。

ベンチでの声かけで一つ挙げるとすれば、前日までの個人戦はラケットを振れずボールを置きに行って負けていたので、とにかく「全部振れ、思いきって振れ」と繰り返しました。今までやってきたことをやりきれば、勝てるという自信はありましたし、もしそれでも負けたならば、また練習も私生活ももっと良くしていこう、そういう気持ちでした。

「羽黒のスタイルは?」と聞かれてもこれと言ったものはないのですが、普通はミスするというところでミスしなかったり、一般論が通じないということはあると思います。日頃からさまざまな場面を想定し、一般論にとらわれない発想で練習しています。そういったショットのポイントが流れを左右する要所であることが多いので、その一本を取りきれることはメンタル的にも大きいですね。

後編へ続く)

しらはた・みつる◎羽黒高教諭(数学)、男女ソフトテニス部監督。1966年9月1日生まれ、50歳。菅野代中→鶴岡南高→山形大。菅野代中でソフトテニスを始め、3年時に県大会団体戦優勝、鶴岡南高でも県大会団体戦優勝を果たした。国体にも2度出場している。大学卒業後、山辺中赴任1年目からソフトテニス部顧問に。その後、鶴岡四中、鶴岡一中と赴任した学校を次々に強豪チームへと育て上げ、全国中学校大会団体優勝1回、個人優勝2回など数々の栄冠を手にした。2009年に19年勤めた公立中学の教員を辞し、羽黒高に奉職。2013年の東京国体少年男子で羽黒高4名が所属した山形県を優勝に導く。2017年には選抜準優勝、インターハイ団体優勝を遂げた。

取材・文◎井口さくら 写真◎井出秀人
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