1956年に日本、韓国、台湾によるアジア軟式庭球大会が始まった。ソフトテニスの国際大会の始まりとされている。第1回大会は男子団体のみで争われたのだが、7本による殲滅戦(せんめつせん)により、日本が初代王者になっている。やはり、この競技は団体戦が基本になって伝わってきたというのが分かる。なお、女子は第3回大会(1960年)から参加している。
今回から日本代表が参加してきた国際大会について、振り返っていきたい。現在はアジア競技大会、世界選手権、アジア選手権が中心になり、2022年はアジア競技大会が中国で行われることになっている。
1990年の北京で公開競技、94年の広島から正式種目に
軟式庭球を五輪種目に。多くの人たちの思いが動き出した瞬間だった。特に1980年代半ばから普及のために中国に渡った宮本行夫氏(故人)の行動力が力になる。その後、宮本氏はアジア各国を訪問して、軟式庭球連盟を誕生させる動きを加速させた。その結果として、1990年アジア競技大会(北京)での公開種目入りだった。
北京大会では女子が団体優勝して、男子は台湾との決勝戦に敗れて2位。さらに個人戦(ダブルス)では上松明裕/大橋元司が優勝を飾った。9Gマッチの決勝戦は上松の気持ちの入った深いボールを起点に、大橋が12本ものスマッシュを決めてG⑤-4と韓国ペアとの長い試合を制した。男子個人として、7年ぶりの国際大会金メダルだった。
1994年の広島アジア競技大会では正式種目
1994年、アジア競技大会(広島)の正式種目入りが決まり、広島市中央庭球場の建造も始まる。それでも宮本氏はアジア各国を訪れることは止めない。インド、フィリピン、ベトナム、香港……、現地で庭球連盟を作るだけでなく、各国のオリンピック委員会への加盟まで手伝う。つまり、その加盟をしていなければ、アジア大会には出場できない。そして、将来を考えてジュニア層への普及の必要性も説いてきた。
1994年10月10日、軟式庭球がアジア競技大会に正式種目として参加する大会が幕を開けた。ただ、日本は大苦戦の連続に。団体は男女ともに3位に終わり、男子個人は準々決勝で敗退してメダルに届かず。そんな重い空気を一変させたのが地元広島出身の熊野美夕紀/砂本由理子だった。予選を危なげなく通過すると、決勝トーナメントでは朴榮雅/朴順貞、尹仙庚/鄭順泳などの韓国ペアを破って金メダルを獲得した。