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【高校界の名将シリーズ】ソフトテニス発展のために尽力――教え子が振り返る西森卓也先生[奈良・高田商業]その指導者像に迫る①渡海聡(和歌山北高監督)

インターハイを優勝して、渡海主将と握手する西森監督

 2022年インターハイまであと少し。そのインターハイで優勝回数歴代1位を誇る、奈良の高田商業について、今回は振り返る。ここでは、2022年7月号のソフトテニス・マガジンにもご登場いただいた、高田商業の前々監督の西森卓也先生の指導者像に迫っていく。

「強豪・高田商業」の名を知らしめた初代の楠征洋先生が、当時27歳だった西森卓也先生に引き継ぎ、その後およそ20年間で、西森先生が「常勝・高田商業」を築き上げた。誰よりも重責と戦いながら、自チームの選手たちだけではなく、高校男子、いやソフトテニス界全体が発展するために、指導者として情熱を注ぎ続けたのが西森卓也先生だった。

 西森先生は監督在任期間中、高校男子界をけん引し、その後も日本ソフトテニス界で活躍した数々のトッププレーヤーを育て上げた。村中弘明、紙森隆弘、渡海聡、松原豊広、渡邊彦継、東司、石川洋平、牧知秀、宮下裕司…ら、長年のソフトテニスファンの方なら、彼らの躍動した姿が目に浮かぶのではないだろうか。

 今回は、西森先生の教え子の中から、西森先生と同じ指導者となった、高田商業の紙森隆弘前監督、和歌山北の渡海聡監督、岡崎城西の牧知秀監督から、名将と過ごした高校3年間を振り返っていただいた。果たして、高田商業らしさを表現する「かかっていくテニス」を体現した方たちは、どのようなエピソードを語ってくれるのだろうか……。

渡海 聡(和歌山北高監督)

 高田商業に進学したからこそ、今の僕があると思っています。ちょうど僕らが1年生で入学したときに、村中さんがおって、インターハイ個人1位、3位、8強、団体優勝で、個人は2連覇だった。あのときが当時の最高成績だったと思います。これが西森先生がインターハイ初めて優勝したときなんですね。その後、インターハイ個人1位、2位、8強、そして団体優勝と塗り替えられたのですが。 その頃から以降の卒業生が、けっこう指導者になっているのもすごいなぁと思うんですよね。

 あと、僕が思うのが、(選手に対して)時間をすごくかけてくれる。生活のほとんどがテニスという状況ですよね。自分が指導者になってみて、結局、いろいろな技術とか、教え方は別として、時間のかけ方は、西森先生を見習って、選手たちと向き合っています。僕はそれほど何か言われることはなかったですが、わちゃわちゃしてやるタイプだったんで(笑)、西森先生から「落ち着いてやれ」とか(笑)、そういうことを言われていましたね。

「かかっていくテニス」がモットーでしたが、やりすぎてしまい、「落ち着いてやれ」と(笑)。本当に当時は、「かかっていくテニス」のことしか考えていなかったですかね。

 あとは紙森先生と出会ったのも大きかったですかね。高校時代、一緒に組んで、一緒に(和歌山北を)指導して、今もソフトテニスに関わっているという。そういう出会いも、考えると感慨深いですよね。高田商業卒の指導者も多いんですよね。自分が高校時代に指導してもらった恩を、返していきたい。そういうことなんでしょうかね。

 西森先生の指導の中で、僕はとにかくフットワークについて多くを学びましたね。そのおかげが……(笑)。バックはへたくそなんでね(笑)。最近になって、バックがうまくなってきました(笑)。年をとってきて、回り込めなくなってきたこともあり、今頃、バックがうまくなってきたんで(笑)。

 とにかく「回り込め!」と(笑)。フットワークですね。「回り込んで腰切って打つ」ってことですね。「引きつけて打つ」「腰切って打つ」「回り込んで打つ」の3つ。そればかりでしたね。それが大半です。今の時代はバックが打てないと勝てませんが、僕らの時代は勝てたんでね。

 今、感じるのは、勝たせてもらったというか。西森先生からのアドバイスが的確なんですよ。その通りになるというか。西森先生のアドバイスは、必ず試合につながっている。当時は、僕ら後衛には「こうで、ああで」みたいな、論理的なアドバイスはあまりなくて。前衛への指示は細かかったかと思うのですが。日頃やっていることが、自然と意識するポイントをやっていくと、試合で(そういう場面が)出てくる。日頃やっていることが基礎練習やって、応用、ゲーム形式がつながっている。そういう一連のことを反復してやっていくと、なんか勝たせてもらったと。

 僕らが1年生の頃から、選手も増えていきました。もともと高田商業は8~10人くらいで、関西圏からの選手が来ていたんですけど、僕ら1年が14~15人くらいになって所帯が大きくなった。次の松原のときもそれくらい。その頃から30人くらいの所帯になった。それまで20人とか20人弱くらいでやっていたらしくて。僕らの頃は奈良県以外の選手も来るようになって。東京から来ていた子もいましたね。それまでは関西圏、それも奈良以外では和歌山か大阪かという感じだったようです。

 今、考えてみると、試合勝ったときの写真とか見ると、西森先生はすごい笑っていますけど、練習は淡々としていた。変な試合しようが、いいプレーしても、かわらずきちんとアドバイスをくれるんです。感情で対応が変わるということはまったくなかったですね。そういう点は、今、自分も指導者となって、自分はできていないなとか思うんですよね。言い過ぎたかなとか思うこともあるんですよ。

レギュラー、それ以外という区別がない

 西森先生が「自分は指導者よりも監督だった気がする」とおっしゃったそうですが、僕も今になって、その言葉の意味がわかります。自分が高校生のときは分かりませんでしたけど、今になってみると、西森先生はそうだったなと思います。

 2年半しかない中で、1回でも日本一にならなかったら、高田商業の日本一にならなかった代として名前が残る。紙森先生はならなかったんですよね。ずっとそれは、「自分はキャプテンで、日本一になっていない」という思いが残っているんですよ。高田商業って、日本一になって3冠(選抜、インターハイ、国体)とかなっても、無冠のときの方が残るというか。西森先生も、そういうときのことをよく話しますよね。高田商業の歴史の中で、無冠が数えるだけということもあるんでしょうね。だから、勝たすことが大事だったのかもしれませんね。

 ほんまにしつこい。指導にしつこさがあって、それが大事なんだなと、今は思いますね。そして1人ひとりをよく見て対応している。僕は「渡海、あんまり言っても入らへんやろ」と言われて。僕自身、感覚的な部分が大きかったから。だからなのかなと、僕にはあまり細かくいうより、感覚的なことを話すというか。だから、先ほど話した3つ「引きつけて打て」「回り込め」「腰切って打て」とか、集中力の持続とか、そういう端的な言葉でアドバイスしてくれましたね。今、考えると。細かいことは、僕のペアとかに話してくれていました。選手に合わせた指導の仕方というか。

 でも、絶対何かを言ってくれる。レギュラー、それ以外といった区別がまったくない。みんなに、それぞれに、絶対に何かアドバイスをしてくれる。そういう思いがあるからなのかな、指導者になっていく卒業生が多いのは。楠先生も言っていましたよね。卒業して指導者になってくれるのが「うれしい」と。

 一時期は明星、山陽、平安の時代があって、高田商業、三重、岡山理大……という時代もあって、それ以降、全国の強豪校は増えていますよね。全国で卒業生が指導者となって育成していっていますよね。だから、インターハイ予選前の5月のゴールデンウィークに、全国から集まって大規模な研修大会ができるようになったのかなと。この5月の研修大会で14回くらい開催して、10回近くでしたか、この研修大会に出場した選手、チームがインターハイで優勝しているので、成果がそれなりに出ているんでしょうね。「みんなでがんばりましょう」「インターハイで会いましょう」と。

 この研修大会はレギュラーだけではなく、チーム全員が出られますから。西森先生はそういう「チーム全員で」というのが好き。チームの中でも実力差はあるかもしれないけれど、みんなに試合をさせたいという思いがあるんですよ。

 だから、研修大会の進行表はめちゃめちゃ細かいですよ。全員が試合ができるように設定されているので。西森先生のすごいところ、そういう緻密さです。時間とか。もう数学的というか。細かさですよね。今は紙森先生が引き継いでいますけど。大会運営の細かさもね。すべて計算されているのかなと。

今年のゴールデンウイークに、白浜の研修大会に参加した和歌山北高

 僕が個人的に思っていることですが、西森先生からのアドバイスをきちんとやっておけば、勝手に上達するように。自動的に強くなっていく(笑)。それに尽きるかな。選手の上達させるにも、緻密に計画されているというか。

 あとは僕はキャプテンだったので、よく遠征の行き帰りなどで先生の隣の席に座るときがあったんですけど、よく寝ているときにいたずらされることもありましたね(笑)。僕は隣に座るのが好きでしたね(笑)。よう話もしましたしね。テニスの話もしましたしね。一緒に遊んでくれていたのかなと思いますよ。遠征のときにも、バスの中で、1曲ずつ歌うっていうのがあったりね(笑)。誰が一番うまかったかとか(笑)。そんなんで人前で歌ったりするのは、恥ずかしいのもあるけれど、遊びというか、そういう楽しい時間の中で度胸つけさせたりね(笑)。距離が近い関係だったかな。今は難しいんですけど、話しやすい監督がいいのか、一線を引いた方がいいのか。難しいところなんですけどね。

戦力的にどうかなというチームのときの方が勝率はいい

 まぁ、西森先生はようコミュニケーションをとってくれていましたよね。テニスコートではないところでも、見守ってくれていたと思います。それと、やっぱりあんだけ勝ったのもすごいですよね。僕は、都道府県対抗で活躍して、たまたま高田商業に入った感じですが、今はジュニアから活躍して、戦績を積み重ねた選手が来ている。僕らは、高田商業がどんな学校かもしらない部分もあったけれど。そういう意味でも、さらに強いチームにしていきましたよね。

 楠先生がいて、そのあと西森先生が引き継いだものは大きくて。スタートは県で負けているんですよ。西森先生。それをどうやって巻き返していったんだろうかと。本当にすごいです。

 1年強いというのは、極端に言ってしまえば、強い選手4人が集まれば、できてしまうかもしれないですけど、それ(日本一)をつないでいく。ずっと。3年生は6人中4人いて、2年が2人くらいいるのが理想ですよね。つなぐという意味では。だけど、西森先生は、l全員3年生で、翌年まったくの新チームになっても勝たせるし。とても難しいことなのに。

 先生は絶対に勝てるというチームのときよりも、戦力的にどうかなというチームのときの方が勝率はいい。ここが大事だというときに、思いきってプレーさせる方法が、僕らはまだ分からない。それを西森先生は実践していた。僕は、まだまだ指導者として学び、研究していかなければいけないということです。

1993年の栃木インターハイ団体を優勝して

 

取材・文◎八木陽子 写真◎井出秀人、BBM
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