全日本レディースに45年連続出場の宮下さんが語るレディース連盟誕生秘話
レディース連盟名誉会長・宮下恭子さんインタビュー
今年、45回の節目を迎えた全日本レディース決勝大会個人戦には、第1回大会から45年連続出場している2選手がいる。さくらブロックに出場した大阪府の宮下恭子さん(ファニー)と、ももブロックに出場した滋賀県の木下幸さん(さざなみレディース)だ。45年前、子育てをしながら同大会を立ち上げたという日本レディース連盟・名誉会長の宮下さんに、話を聞いた。
電話と手紙で役員を募る
全日本レディース決勝大会個人戦の立ち上げのきっかけは、全日本グランドベテラン大会にある。近年では5月に宮崎県で開催されている同大会だが、以前は宝塚を拠点にしていた。宮下さんは神戸松蔭女子学院大を卒業して間もないころ、そのグランドベテラン大会に本部の手伝いをしながら参加し、学生時代にお世話になった方々からレディース連盟の立ち上げを提案されたのだ。
連盟立ち上げのためには軸となって動く人が必要なので、人を集めるためにもまずはレディースの大会を開催することに。ネットやSNSがなかった時代、前年の皇后杯で上位に勝ち残った選手の所属する連盟にひたすら電話をかけ、選手につないでもらった。
結果、ナガセケンコーやゴーセン、大阪連盟の選手などが数名集まり、全日本レディース個人戦の前身となる『全日本女子グランドベテラン大会』の開催にこぎつける。大会後にはベスト4入賞者が韓国遠征に行くことになり、訪れた韓国ではすでに女子連盟が結成されていて驚いたという。さらに翌年3月の韓国チーム来日が決定。「これは大変!と、韓国遠征に行った選手たちで、急いでレディース連盟を結成したのです」(宮下さん)
役員と同時に会員数も増やす必要があったが、当時はFAXもコピー機も一般に普及しておらず、宮下さんは子どもの通う小学校で鉄筆(鉄製の芯がついた筆記具)を借り、謄写版で大量の印刷物を作成して郵送した。資金もなくゼロからのスタートだったが、地道に役員と会員を募ったレディース連盟は次第に規模を拡大していく。
1974年に待望の『第1回全日本レディース個人戦』が宝塚市で開催。選手は西日本中心だったが、伊勢での2回目の開催となった第5回大会で「来年は北海道で開催したい」と声が挙がり、全国から出場者を募ることになった。以降、回を重ねるごとに部門は増え、今では10の部門で争われるレディース最高峰の個人戦として定着した。
頑張っていれば家族も応援してくれる、それが一番の原動力
25歳と27歳で2人の子どもを産み、子育てをしながらレディース連盟の仕事に没頭してきた宮下さん。日本連盟では女性初の理事にも就任するなど45年を全力で駆け抜けてきたが、家庭が基本だと強調する。
「子どもの食事は3食準備して、不在にするときはノートに伝言を残しておきました。洗濯物をお願いね、とかね。テニスがあるからごめんねというのは、一番よくないですから」(宮下さん)
山梨で行われた第1回全日本シニア大会で優勝して帰宅すると、子どもたちがお花をプレゼントしてくれたことがあった。
「日頃頑張っていれば、家族も応援してくれます。それが一番の原動力になりましたね」と宮下さん。最近は働いている方も多く、家庭に仕事にテニスにと大変な日々を過ごしているレディースプレーヤーが多いと宮下さんは心配するが、だからこそ日頃から家庭のことを一生懸命にやってほしいと付け加えた。
大先輩のエールは、きっと全国のレディースプレーヤーに届いている。